仏舎利とは、仏教において釈迦などの高僧の遺骨や遺灰を指します。その語源はサンスクリット語の「シャリーラ」に由来し、身体や遺骨という意味をもちます。
遺骨崇拝は古代インドに根付く文化的な慣習に由来します。インドでは遺骨が人々を守り、霊的な加護を与えると信じられてきました。この文化が仏教に取り入れられ、仏舎利の信仰として発展していきます。
それでは、仏教において仏舎利やその信仰がインドではじまった様子をおさえて、日本を含む東アジアへどのように広まっていったかを眺めてみましょう。
仏舎利の歴史と伝播
インドでの仏舎利信仰の始まり
仏舎利信仰は、釈迦が入滅した後に始まった仏教の重要な伝統のひとつです。釈迦の遺骨が火葬された際に残された遺骨や灰は、弟子たちや信徒たちにとって深い敬意と信仰の対象となりました。釈迦生前の教えと悟りを象徴するとされる仏舎利の供養は、当初は釈迦の教えそのものを守り伝える行為と見なされていました。この信仰はやがて仏塔(ストゥーパ)建立と共に広まり、仏舎利を納めるための建築物が各地に作られるようになります。仏塔は仏教信仰の中心として重要な宗教的役割を果たし、信徒たちが祈りを捧げる場となりました。
各地の王たちへの分骨とその目的
仏舎利は釈迦の火葬後に、8つの部族や王たちに分けられ、それぞれの地で供養されました。この「舎利八分」の伝説は「大般涅槃経」などの古典に記されています。この分骨の背景には、仏教の精神的な礎である釈迦の遺骨を通じて、各地に仏教信仰を広めるという意図がありました。こうした分骨の過程は、遺骨崇拝が釈迦の人格への尊敬だけでなく、地方ごとに仏教のシンボルをもち、平和と統一を築こうとする試みであったことを示しています。この信仰の広がりは、王たちが仏教を政治的にも利用し、地域社会における安定を保とうとした背景も含まれています。
中央アジア・中国・朝鮮半島を経た伝播のルート
仏舎利信仰は、インドから北部パキスタン、アフガニスタン、中央アジア*、中国、さらに朝鮮半島を経て東アジアの広範囲に広まりました。この伝播の過程では、シルクロードを通じて仏教文化が伝えられ、仏塔の思想や建築様式も共に伝播されました。中央アジアのクシャーナ朝時代には、仏教が活発に支援され、多くの仏舎利塔が建設されました。中国では、仏教が広がる過程で仏舎利が深い信仰の対象とされ始め、魏や隋・唐の時代において、仏舎利塔の建立が推進されました。朝鮮半島では、百済や新羅に仏教が伝わると同時に仏舎利信仰も到来し、壮麗な仏塔建築が現れました。これにより、アジア各地で仏舎利を中心とする仏教の信仰コミュニティが形成されていきました。
日本への仏舎利の到来とその背景
日本には仏教と共に仏舎利信仰が伝わり、仏舎利は聖徳太子の時代に取り寄せられたとされています。この時期、日本は中国大陸からの輸入文化を受け入れる変革期にあり、仏舎利も他の仏教文化と共に広まりました。仏舎利は天皇家や貴族層の庇護の下、強い崇拝の対象となり、仏舎利をまつるための寺院や仏塔が次々と建立されました。とくに奈良時代の東大寺をはじめ、仏舎利の供養を目的とした建築物が多く建てられ、日本独自の仏舎利信仰が発展していきました。このように仏舎利は、仏教の普及だけでなく、日本の文化や建築にも深い影響を与えています。