摂津国分寺では2010年秋季の団体参拝で、中華人民共和国陝西省の省都である西安市(旧長安)へ、青龍寺を尋ねに行きました。
空海(弘法大師)は中国へ渡り、ここ青龍寺で修行しました。
この記事では、空海の経歴と青龍寺の歴史をまとめて、空海の足跡をたどっています。
空海(弘法大師)の経歴
誕生
空海(弘法大師)は奈良時代の末に、四国讃岐国(現香川県)多度郡屏風が浦に生まれました。幼名は佐伯真魚。
生誕年には二説あり。旧暦新暦の誤差や数え年の風習を含めて773年説と774年説です。ややこしいですが、真言宗各宗派では774年説を採用しながら2023年を生誕1250年と解釈しています。
父は讃岐の国司(郡司)佐伯直田公、母は玉依御前。今の善通寺市にある真言宗善通寺が生誕地と伝えられています。
都へ遊学
15歳のとき、学者の伯父の勧めから都へ遊学することになりました。
勉強の甲斐あって18歳で大学に入学し、儒教を学びました。
わずか2年足らずで大学課程を修了しましたが、立身出世を教えるばかりの講義に数々の疑問が。
「人の世をほんとうに救うためには…」 と悩みはじめ、大学を中退。
あるお坊さんのもとで仏教を学びはじめました。その時の名は無空。仏教者としての出発でした。
室戸崎にて苦修練行
虚空蔵求聞持法を授かり修行者となった空海は、阿波大瀧、土佐室戸崎、伊子石槌山、大和金峰山などで苦行しました。
入唐求法(空海の遣唐使ルートと足跡)
入唐求法は今でいう中国留学で、空海の人生の山場となりました。
804年7月6日、31歳になった空海は唐へ派遣される留学生に選ばれました。
遣唐船4艘が九州の港を出発しました。第1船に空海が乗り、第2船に、のちに比叡山を開いた天台宗開祖の伝教大師最澄が乗っていました。
港を立った留学生船団のうち空海が乗る第1船が暴風雨にあい、船団が散り散りに。
空海の乗る船は漂流すること一ヶ月。
到着する予定だった浙江省杭州市の港よりもはるか南の福建省赤岸村に漂着しました。
遣唐使というシステムや存在を知らない村の役人たちは、空海に疑念を抱き牢屋へ放り込みました。
しばらくして、長安へ行くべき使命感を述べた漢文の手紙「為大師與福州観察使書」を空海は書き、これが村役場の人たちに感心され、村を発つことが認められます。
赤岸村を出た空海たちは本来の目的地の杭州市をめざし、リスタート。
福建省最大河川の閩江を船で、福州、南平へと上流に進みます。
山岳地帯の上流からは歩き続けました。仙霞茶道や仙霞嶺を越え、この一角で豆腐を知って作り方を学びました(のちに高野豆腐へ)。
浙江省に入ってから再び乗船。
富春江を船で下り杭州へ。
ここからは遣唐使の訪長安の一般ルートに沿い、なんとか唐の都長安へ到達したわけです。
このように、空海の遣唐使ルートは、難破に対応できずに福建省に到着するという、とても過酷なものとなりました。
わたし(空海)の入唐求法を映像つきで分かりやすく説明したNHKのBS番組があります。ドローン撮影を駆使した映像が圧巻!次の2番組です。
- (川バージョン)赤岸村到着前後から、閩江を上り南平を経て富春江を下ら、浙江省を展望するまで。風水の水と火から南平の古代治水史にも言及。…空旅中国・名僧たちの足跡 「空海と川に生きる人びと」(初回放送日: 2022年1月21日)
- (山バージョン)赤岸村到着前後から、福建省・浙江省の山岳地帯を移動するまで。北苑貢茶古道、仙霞古道(楓嶺関など9関所、空海菩薩)・仙霞嶺・廿八都(鶏鳴三省、高野豆腐のルーツ、童子拝観音)、江郎山・一線天のエピソードなど。…空旅中国・名僧たちの足跡 「空海が越えた峠」(初回放送日: 2022年1月28日)
次の番組との異動は未確認。空旅中国「空海のまわり道」(初回放送日: 2020年9月7日)
過去の番組は見逃し番組として公開されています。NHKオンデマンドのコンテンツの一つで60分バージョンが見られます。有料。2022年12月12日現在、空海関係は公開されていません。
真言受法
当時の長安は世界最大の都市といわれ、そこで空海はたくさんの人たちから教えを受け、学び、見聞しました。
幸運にも、唐代密教の中心者「不空金剛」の弟子で、長安の代表的阿闍梨であった「恵果」和尚のもとで、密教のすべてを学ぶことができました。
そして、最高の儀式である伝法灌頂を受け、ここに正統密教を受け継ぐ第一人者となりました。
三鈷投擲
師僧の恵果からすべてを伝授された空海は、二十年間の留学予定をやめ、一年余で日本に帰りました。
仏教書ばかりでなく、文学書、医学書、土木書など、当時の文化を大師は日本に持ち帰っています。
東寺の下賜と綜芸種智院の創設
帰朝後の空海は、嵯峨天皇から勅願を受けたり寺院を賜わったりと、大きな信頼を得ていきました。
815年、空海は嵯峨天皇の勅願を受けて、香川県の屋島寺を訪問しました。北嶺の伽藍を現在の南嶺に移しました。また、十一面千手観音像を彫造して本尊として安置しました(参照「屋島寺の歴史・由来」)。
821年、渇水飢饉に悩まされる香川県仲多度郡地域の満濃池に治水事業を実施。(築池別当として朝廷から派遣され、約3ヵ月後に改修を完了。)
水圧に対してアーチ型の堤防を築き、当時の先進技術を導入。しかし、その後も決壊と復旧を繰り返しました。
823年、空海は嵯峨天皇から東寺を賜わり、正式名を教王護国寺と改め、真言密教の道場にしました。
そして、東寺の東隣りに総芸種智院という学校を設立しました。ここでは、貴族の子供だけに限られていた学問を庶民の子すべてに機会を与えたのです。
総芸種智院は、あらゆる学芸を教授する日本最初の総合大学でした。また、この時代、大師は「秘密曼荼羅十住心論」と「秘蔵宝鎗」という代表著作を完成しています。
高野山において大師御入定
835年3月21日、空海は高野山の奥之院にて入定しました。
その日までの10日間、弟子たちとともに弥勒菩薩の名号を唱え、正座して入定されたそうです。
そして、御入定から86年目の921年、醍醐天皇は「弘法大師」のおくり名(諡号)と法衣を賜わりました。
ふつう、仏教では入寂や入滅の語を使いますが、真言宗ではいまだ空海が高野山の奥の院に「おられる」と考えるため、弘法大師にかぎって入定の語を充てています。
このため、弘法大師は生身の仏として信仰対象とされます。
本尊として拝まれる寺院も多く、宗祖御宝号「南無大師遍照金剛」を唱えます。
- 念仏・御宝号 南無大師遍照金剛
- 御詠歌 み佛の護りたまえる国分寺 ゆるぎなき世の鎮めなりけり
空海(弘法大師)と青龍寺(中国西安市)
真言宗の源流にあたる青龍寺は中華人民共和国陝西省西安市にあるお寺です。別名に「石仏寺」。
このお寺を模して香川県に善通寺が建てられたほど、空海(弘法大師)や真言宗と所縁が深く、中国内外をとおして仏教聖地の一つとして崇めらています。
空海(弘法大師)は青龍寺で2年にわたって仏教を学びました。
青龍寺
青龍寺の歴史
青龍寺の前身は霊感寺です。
霊感寺は582年に建てられ、621年に廃寺。662年に観音寺として復興し、711年に青龍寺が建立されました。
唐大暦年間(766~779年)以降、不空三蔵の密宗教徒「恵果」が青龍寺に暮らし、「真言大教」を弘宣して灌頂道場を設立しました。そして空海をはじめとする数々の弟子に法を授けていきました。
恵果は「三朝供養大徳」と尊ばれ、空海(弘法大師)の師匠として日本でも有名な方です。
青龍寺の今
北宋期の1086年に青龍寺は廃墟となりましたが、今は復元されています。
昔ながらの3構成で、東院、西院に分かれ、中院は遺跡区となっています。
空海が学んだ建物は東院で、これは現在、恵果空海記念堂庭となっています。西院は2階建ての配殿計19間のスペースをもっています。
- 1956年省級文化財保護単位陝西省人民政府によって省級文化財保護単位に認定
- 1963年調査
- 1973年再調査と再発掘中国社会科学院考古研究所西安工作隊が新昌坊の街を掘り、青龍寺の位置を確認
- 1982年「空海記念碑」設置日本の真言宗各派が西安市と協議し「空海記念碑」を設置
- 1984年「恵果空海記念堂」設置日本の真言宗各派が西安市と協議し「恵果空海記念堂」を設置
- 1992年省級重点史跡陝西省人民政府35号文書により、陝西省135カ所の省級重点史跡の一つに指定
- 1996年全国重点文化財保護単位青龍寺遺跡を含む隋大興唐長安城遺跡が中華人民共和国国務院によって全国重点文化財保護単位に指定
- 1997年西院西安市人民政府が西院を仏教管理に移管し、宗教活動を再開(東院は文化遺産として西安市文物局が管理)。
- 2005年以降青龍寺遺跡西安市政府が楽遊原歴史文化公園(青龍寺遺跡保護)プロジェクトを実施し、青龍寺遺跡の保護と建設利用に注力
- 2012年弘法大師・空海を偲ぶ日中交流訪問団日中国交正常化40周年を記念し、日本の旅行業協会や観光振興協会が「弘法大師・空海を偲ぶ日中交流訪問団」を編成して訪中
- 2019年空海記念碑「空海記念碑」が20世紀建築遺産に選定