二つの安心
最近、境内や国分寺御廟で参拝者の方々と会話を交わしていると、口から出される言葉が週単位で偏っていることに気づきました。
先週は「安心する」でした。
御廟へ参拝に来られて、故人やご先祖の傍に付き添って、しばしの時間を過ごされると、みなさま「安心した」と仰ります。
仕事をしていて参拝者や契約者の方々から感じる「安心」は、二つあります。
- 契約の安心:国分寺御廟に御霊位を預けることの不安と安心
- 参拝の安心:国分寺御廟で御霊位を参拝することで得られる安心
いつも一つ目を意識して仕事をしていて、見学者の方々に不安要素を取り除いてもらおうと、堂内墓地について、あれこれ説明しています。
この1週間で強く感じた二つ目の安心。
契約の安心から参拝の安心へ
「参拝」の安心につながるように「契約」の安心をもっと意識すれば、見学者の方々も契約や参拝の展望をはっきりさせやすいかと思いました。
契約の安心は、ヤシロさんに大きくお任せしていますが、参拝の安心は、私たち国分寺職員がとくに供すべき課題です。
参拝終了後に笑顔で「安心した」と仰る、たくさんの契約者方々のお顔と背中を思い出しながら、契約と参拝の安心を活き活きしたパイプで繋げられたらなぁと思う今日この頃です。
二つの安心と良きこと
安心するとは、《気がかりなことがなくて心が落ち着くこと》です。
お墓の在り方を考え直すことは、故人の安らげる場所を探し直すことです。
結果的にどうであろうと、お墓の在り方を考え直す(またお墓を引っ越しする)ことで、自分が故人と向き合う場所や関係も考え直せます。
すると、二つの安心がつながります。
そして、
- 契約して良かった
- 参拝して良かった
二つの「良かった」を感じられます。
密教での安心
せっかくですから、ここで仏教での安心について、密教や真言宗に引き寄せて考えてみます。
密教では安心を「あんじん」と読みます。
ふつうに読めるようでどこか違う読み方があるのは仏教用語あるあるですが、安心もしかり。
といっても、ふだん私たちが使う安心と、大差はありません。
さて、密教でいう安心とは「心を安住させる」ことで、中世に使われはじめたとのこと。
そもそもの意味は、仏教(教学)に対する実践的な信心をさします。
信じることは実践的な行為です。
信心をもつには多少なりとも決意が必要。私はその意味で実践的な行為だと思います。
実践と安心
よくお師僧さんや照教さんから指摘されることが「動けば心配がなくなる」です。
たとえば気がかりな掃除や書類仕事などのうち、もし短時間で終わるものがあれば、先に片づけておくと課題が減り、心残りも減ります。
私らしく、ご褒美を増やす発想でいきますと、
- 一つの課題を終えた安心
だけでなく、
- 残りの課題が減った安心
- 残りの課題もやれそうな安心
- 参拝者方々も喜ばれるであろう安心
と考えます(^^)/
そのために最近よく意識していることが、課題に必要な期間を予測することです。
短期間・短時間で終わるものをさっさと片づけて、その間に休憩がてら長期間課題へ取り組むウォーミングアップをします。
いくつか課題を終えていくうちに、長くて重い課題が温存されているわけです。